小事争論 こじ

アジア服・南国よろず屋ままかのボス。まだときどきちゃぶ台をひっくり返したりするけどだいぶ穏かになりました。

喜捨のはなし



「歩道橋の上や、道端で、物乞いをしている人がいた時、あつこさんはどうされますか?お子さんになんてお話しされてますか?」と、質問されることがある。

 

こちらへ越してきたばかりの頃はうちの子ども達もまだ小さくて(イメージ1年生と幼稚園)初遭遇はきっと衝撃的だっただろうと思う。怖そうにしたらいけない気がするけど、少し怖いよ・・・って顔をしていたかな。何度か目にするようになってからは「ねぇどうしちゃったの?どうしたらいいの?」と聞いてくるようになった。「どうしちゃったんだろうねぇ、よその国から仕事に来たけど、仕事がなくなっちゃってでも帰れないしって人もいるし、大きなケガをして働けなくなってしまった人もいるよね」「ねぇあの人たちは家族だよ。子どもが小さいよ」「そうだねぇ今日は雨に濡れないといいね」とか、その時々に話をして、なるべく早くに「分からない=怖い」という感情からは放してあげたいと思っていた。お金あげたい、という時にはいくらか渡したりもした。だんだんに「全部は救えない」と言う気づきも生まれる。誰もが生きやすい世界をつくるにはどうしたらいい?君ならどうする?など話し合ってきたけれど、大きな構想では、今すぐ目の前にいるこの人ひとりも救えない。なにが幸せなのか、なにが正解なのか、堂々とお伝えできる回答はない。

 

 

 

私がネパールで買い付けしてた十数年前。偶然の出会いから一般のお宅にあげてもらう機会が何度となくあったのだけれど、首都カトマンズのど真ん中であっても、私と関わるような人たちのお家はどこも裕福ではなかった。でもネパールと言う国は他国と「幸福観」が違うことでも良く知られていて、お金と幸福は必ずしもセットではない(これは別の機会にゆっくり話したいほど、おもろ素晴しい哲学)

f:id:mamakaboss:20210318162902j:plain

恥ずかしがり屋の子ども達。お寺で。

 

で、ある日、まだ幼い姉弟が私達を家にあげてくれたことがあって、お湯の足らないぬちゃぬちゃのインスタントラーメン(名前はチャウチャウ)とゆで卵を振舞ってくれた。ネパールでは貧富に関わらず、お客さんが来たら自分の芋までも差し出しておもてなしをします。むっちゃ笑顔で(詳しくはままかのカイツケ日記  2004年10月9日カトマンズ←古!!さっきちょっと他人目線で読んだけど衝撃的だった・・・よかったら是非。

同行した桜井が、お別れにチップを10ドル渡そうと言い出し、そして揉めた。

 

私➡私達が訪れて食したものなどの実費は埋めてあげたい。しかし今過剰なチップを得ることで、今後も同じことを他の旅人にしてしまうのではないか。私達がいい人ぶることは未来の彼女たちの安全を脅かすことになる。

 

桜井➡この気持ちに応えたい。長い人生の中でほんのたまにいい事があって、もらったお金で美味しい物をたくさん食べた思い出くらいあったって、いいと思う。

 

今これを読んでいる人も、私の大人な意見に賛成な人が多いんじゃないかな。 

 

結局、真ん中とって500ルピーで手を打ったんだけど、それでも私はあげすぎだと思っていたし、桜井は不足だと思っていた。それからも物乞いとのやり取りやチップが続く。ある程度の経験を積んでいくと自然と桜井の中に「相場」が見えてきて、500ルピーは多すぎた!!と肩を落とすことになったんだけれど。

 

桜井は高校時代のクラスメイトで、当時はぜんぜん仲良くなかったのに同窓会で再会して意気投合。あっという間に2人でメキシコの買い付けに飛んだ。スペイン語堪能、それ以上にふにゃきゃわキャラで大活躍。(ままかのカイツケ日記2002年10月31日オアハカ←メキシコ編は自分で一番好きなカイツケ日記です。よかったら是非 そこにも物乞いのエピソードは満載であった。

f:id:mamakaboss:20210318162949j:plain

毎朝、カフェにやってくる子ども達

ある日カフェで朝食をとっていると、ハロウィンの飾り缶を持った子ども達が集まってきてね、すると桜井は私に「この子達しつこくないから、冷たくしないでね」とわざわざ言った。インドネパール含む多くのアジアの国々では、しつこい物乞いに強くNo!を言わなければならないシーンが少なくない。それに馴れてしまっている旅人は、そのままの態度で子ども達に声を荒げることがあるのだけど、それにメキシコ人はびっくりしてしまうのだと。子どもにそんなこと、メキシコ人はしない。だから桜井は、子ども達が旅人に近づいていくと気が気じゃなくてドキドキするんだよと言った。万が一にも私がやったらどうしよう、そんなとこ見たくもないしって事で、先に教えてくれてたというわけだ。確かにそう言われて周りを見て見ると、なにがしかの問題が起きているテーブルはなさそうだった。カフェに座っている人たちは、さっと取り出せるようにポッケに小銭やキャンディを入れているし、おしゃべりだけでバイバイする人もいる。それで子ども達が癇癪を起したりもしない。私達も「こんにちは。いい天気ですね」と知らない大人と会話するように、丁寧に接してみるとわちゃわちゃはしゃぎはするものの、別段しつこくはなく、そしてまた笑顔で別のテーブルへ行く。朝の日常的な風景。

メキシコは長きに渡り、ヨーロッパの食材庫として搾取されてきた。生活が奪われて幼い子が生きられないそんな中から「天国に行っちゃえば楽ちん!」という発想が生まれてくる。ガイコツ祭りのコミカルな明るさの中にある闇は、命の儚さだ。

「生きてるうちにたまにはいいことあったっていいじゃない」

もし思いがけない大きめのお小遣いが貰えたら、お腹いっぱい好きな物食べてさ、ああ今日はラッキーだったねって美味しい思い出がいっこ増えたらいいよね!って桜井は思ったんだよね。そう言う人だから、あのネパールの姉弟にちょっとだけ多めに置いていきたかったんだよ。

あの時私は「この甘ちゃんが!」って思ったよねー。でも今は「どうして甘ちゃんじゃいけないんだろう」って思うよ。桜井。

 

「金の行先はマフィアかも知れない」

「甘やかしたらつけ込まれる」

「きちんと断ってこそ防犯」

「自立を妨げちゃいけない」

「詐欺かも知れない」

「キリがない」

 

おおかた、冷静な日本人バックパッカーの意見はこんなとこだろうと思う。

私も、初インドを周ってた時はそんな感覚だった。未知の敵に対する怖さみたいなものもあって、上記のような教訓をしっかり心にとどめて行動。自衛に努めていたと思う。しっかり教えを守って無事にKITAC!! よく出来ました。

 

 

 

時は流れて(だいぶ流れて)わたしはなんと、タンブンの国タイランドに住んでいる。

 

f:id:mamakaboss:20210318163002j:plain

子どものお坊さん。やっぱりパソコンが気になります。

 

朝の通勤ラッシュ時には、駅に向かう道や連結高架の上で、多くの人がさり気なくタンブンをしている姿を見ることが出来る。タンブンとはお布施のことだ。

 

ある時、若い女性が20バーツ札をきれいに畳んで、物乞いの胸ポケットに入れてあげていた。その迷いなく流れるような所作を、美しいと思い、衝撃を受けた。

 

日本人的な思考からするとあげていいものは「不要なもの」だ。余っているもの、使わないもの。物乞いにあげるお金なら、悪意なく小銭に違いない。ジャラジャラっと彼らの物入れに投入される。

 

小銭ではなく、お札を、きれいに畳んで、と言う選択は相手への敬いだ。さらに、それを胸ポケットに入れてあげたのは、その人の手が不自由だったからかも知れない。

ここまでのふるまいを、ためらいなくさり気なく出来てしまう。それも習慣的に。

私達の屁理屈こねくりまわして及び腰の善行とは、なんだかぜんぜん格が違うんだ。

思わず「よく見て・・・」と心の中で、手を繋いだ我が子につぶやいた。

 

そうやって多くの人が、売ってる物を買ってあげたり、話しかけたり、道を渡らせてあげたり、いろんな日常的のあちこちで関わってて、だからと言ってしつこく干渉しないのもいい。 

  

タンブンは善行。善行は、いずれ自分に返ってくるというもので、結局は自分の為にやってるんだよ、つまりそれだけ強欲なんだよって言う人もいる。後ろにマフィアがついてるとか、あの物乞いは詐欺だよ。実はけっこう元気で家もあってバスに乗って帰っていくんだよ、とか。そうだね、それらはぜんぜんあり得るなと思う。思うんだけど、だからなに?なのだ。帰る所があるならよかったじゃん!!

知ったかぶりの日本人が騙される人を冷笑して「それ見た事か」と繰り出すそんな噂と、タイ人が考えるタンブンはぜんぜん違うレイヤーにあると思うんだ。そのお金がどこへ行こうと、何に変わろうと関係ない。

 

誰の為でもない、自分の為に。

今ここにある自分の気持ちをきれいに畳んで、誰かの胸ポケットに入れる。

母親の病気を治すためとか、試験の合格とか、どれも身勝手なお願いごとのためなのかも知れないけど、そんなの生きていたら当たり前のことだよね。

目の前にいるボロボロの人を人として丁重に扱っているというその所作は、いまここで起きてる事実なんだもの。それに勝るものないでしょ。

 

世界にはその世界の正義がある。生活体験の中から、生まれてくる考え方がある。自分のいる世界の考え方は、自分の身体にいつの間にか沁み込んでいくものだ。

私の子ども達が、こんな風景のある場所で育ってて良かったなと思ってる。

人は残酷だし、自分は無力だけど、街で繰り広げられる笑顔とワイとタンブンの光景は、彼らの原風景になるだろう。羨ましいな。タンブンをする人の為に、美しい風景のために、その人たちは路上にいるわけじゃない。もちろんその通り。だけど目の前のこの現実を見ないわけにもいかない。人々がどう向き合っているのか、見つめる事しか出来ない子ども達が、何を感じて大きくなるか。きっと世界は変わっていくと思う。

 

だから旅先で迷った時は、「日本ではふつう」って言わないで、いったん自分の常識を横に置いてみたらどうでしょう。否定したらもったいないので丸ごと受け取ってみるといいんじゃないかって思う。それから自分に沁み込んだ「常識」を観察して、時に比べながら、その国の人のやり方、考え方を観察して、いっぱい真似して感じて考えてみたらいいと思う。

 

誰もが生きやすい世界を作るには、どうしたらいい?

 

 

 

 

 

※各国のあれこれそれは違う!というご意見もあるかと思いますが、これは私が体験して考えた事を書いています。すべて主観ですのでご了承ください。