小事争論 こじ

アジア服・南国よろず屋ままかのボス。まだときどきちゃぶ台をひっくり返したりするけどだいぶ穏かになりました。

ありったけのお金で買うもの

昨日から引き続き、日本からの友人に話していたお金の話です。

 

 

平等と公平は、いくらですか?

 日本みたいになんでも値段が表示されていてほぼ定価で、チップも不要、寄付もしない習慣で暮らしていると、名前のつかないお金にはすごくモヤモヤする。値札のついた買い物は、嫌な思いもしない代わりにお金に対する主体性を失いがちだ。その名前のつかないところに金を払うと言うことにいろんな面白味や個性が隠されているというのに。金額がおかしかったらざっくばらんに「なんでこんな金額になるの?」って聞いてみたらいいんです。なんで聞けないかというと、請求に対する会話といえば「クレーム」しかイメージできないから。そんなことで事を荒立てるなんて不本意なのね。でも、こちらでは請求書を見ながら店員とあれこれ確認するのは日常茶飯事で、なにも眉間にしわをよせる必要もなく、いい感じに双方笑顔でやり遂せるのよ。確認はあくまでも確認。クレームじゃない。ちなみに英語で苦情はクレームと言わない(余計な情報)

 

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そして乗り物だけでなく、病院や学校でも、必要とあらば交渉が出来ます。最初から決められた金額を支払うことが出来れば遭遇しない事態ですし、なるべく言われたとおりに払うべきだと思います。お金があってそんなの面倒くさい人はしなくていいことですが、ただ、そうでない人は、どうしても交渉をしなくちゃならない場面が訪れるのですよ。交渉というとおこがましいですね。それは相談です。歯をセラミックに替えるのに1本17000Bなら、2本いっぺんにやるから15000Bになりませんか?など。「どうしたいのだ、いくらなら出せるのか」という話は医療の場だって膝突き合わせて話し合います。落としどこは人によって違ってもよいのです。

 

日本にいると、みんなが同じ金額を支払って同じサービスを受けられることが「平等」であり「公平」とされています。治療費のディスカウントなんて先生にする話ではないですよね。そんなのはしたないし、払えなかったら諦めるが当たり前です。一方、地獄の沙汰も金次第のタイランドでありながら、金がなくてもどうにか生きたい場合、金のことはけっこうどうにかなったりする。そもそもお金は巡るという意識やタンブンという喜捨の精神があるから、同情出来る事情があれば寄付もあっという間に集まります。とにかく金の話はみんな大好きで、共通の困りごとです。誰もが真摯に(興味本位ともいう)耳を傾けてくれる。みんなと同じ学費が払えなくても同じ教育を受けられたり、保険がなければ懐に合わせていろいろはしょって治療を受けることが出来たり。「お金ないのか、じゃどうしようか」と考える余地がある。この余地がタイランドの懐です。

「平等」や「公平」に条件を持ち出さないっていう、何気に粋な心意気。求める人が声をあげたらそれに応えれるかどうか、与えられるかどうか、どうやって切り分けたら凸凹が平らになるかという視点から生まれた「出せる人が出す、出せない人はそれなりに出す」ってことで、まぁいいか・・・というおかしなそして素晴らしい価値観。だと、私は思うのです。が・・・

「それはちょっとずるいなぁ」と友は小さい声で言いました。

いやそうなんだろうなぁ。日本人は同じ金額を出すための努力を惜しまないものね。いつも出してばかりいる人には腹立たしいしかないのかも知れない。いっかい救われる方になってみないとこの素晴らしさ、わかなんないのかもなって思う。

 

 

ありったけのお金で買うもの

うちのお手伝いさんワさんの子ども達は、うちの子ども達と同じ学校に通っています。近所に日本語ペラペラの面白い外人さんがタイ人の奥さんと美味しいぶっかけ飯屋さんやってるんだけど、ここの子も同じインターに通っている。そもそもタイは階級社会だから、単純に学費を中心に棲み分けすれば同じ場所にいることはまずあり得ない。私たち移民同士はその呪縛から離れて向き合えているとしても、タイ人には難しそう。でも多くのタイ人達がそれに不満を持っているようには見えないのです。いつもみんなフレンドリー。彼らがその環境のもたらすGoodバイブスを感じているのであれば嬉しいなぁと思います。我々移民の多くは裕福ではない。ぶっかけ飯が一皿45バーツとして、インターに行くにはどれだけ働けばいいんだろうか。プチ留学の学校もそうなんだけど「ここに通いたいんです」と言われちゃったら参ったなぁで、この子を引き受けるにはどうしたらいいんだろうって、学校は考えるんですよ。私が出会った学校がたまたまそうだったのかも知れないので断言は避けますが、困り事を正直にお話しして嫌な顔をされた事はありません。それなりの対応をしてくれます世界中の子ども達を宗教や人種にこだわることなく広く受け入れるなら、個々バックグラウンドが違うのはあたりまえです。それぞれの学校にそれぞれの考え方やサポートの仕方があるのだと思います。そしてその采配できるのは、しっかり金銭的にバックアップしてるタイ中韓の人々がいるからでしょう。それに助けられて学校への敬意を自分たち最大限の金額にしてなんとか支払ってるという家庭が少なくないのではないかな。その凹んだ部分が言及されることはなく、どの子も毎日同じ教育を受けることが出来ている。出せる人は出す、出せない人はそれなりに。お金を払えるかどうかではなく、同じ教育を授けられるかどうかにプライオリティがあるのです。でもお金を出すってことも同時にとても大事なことなんだよ。援助のある子ども達はしっかり勉強して、この子がこの学校にいてよかったなって思われるようにがんばらなくっちゃ。援助されてる子がどの子かはわからないけど、子ども達同士は貧乏だの金持ちだのお互いよく知りつつもさほど大きな事柄にとらえずともに学んでいます。

私はそういうあり方が、ずるいと思うより、すごく安心するしめちゃくちゃ誇らしく思うのです。

 

ちなみに、ワさんは学校からの紹介でうちのハウスキーピングに来てくれています。つまりお人柄は学校の保証付き。昨年マヒドン大学のピアノ科に合格したワさんの息子さんが、うちの子にピアノを教えてくれています。もぅごっつスイートなピアノを弾く人で、私はキッチンで聞きながらいつも泣いています。この前はずうずうしくもそのピアノで歌わせてもらいました。ワさん一家はミャンマーからの移民です。旦那さんは起業家で、おそらく収入のほとんどを3人の子の教育に充てているでしょう。「私には教育がないですから」ってワさんは言うけど、汗水たらして働いて、子どもの可能性にすべてを注いで願いを叶えてあげられるすごい人。それに子ども達のことをとても尊敬しているんです。この流れの中だけでも、学校を中心に移民同士が助け合って存在していることがわかるでしょう。平等に(日本的には不平等に)切り分けられた教育が、ひとりの子どもをピアニストにし、その子がうちの子に音楽の素晴らしさを分けてくれ、そのお母さんが「明日学校休みって知ってた?」って私に教えてくれる。

 

教育費をねん出するのは本当に大変です。どの子にも教育が与えられる日本をうらやましく思うこともあります。同時に、タダほど怖いものはないとも思います。

移民の一世がありったけのお金で買っているものはなにか。尊いです。

 

そんな話を友人にしました。

 

彼らは新しく家を買い、85歳までの大きなローンを抱えています。どうせ高い家賃を払わなければならないのだから、とてもいいことだと思います。

日本にいる時から不思議だったんだけど、家なんて生涯で一番高い買い物をするのに、お試しが出来ないっておかしくないですか?w

私が家を買ったときに不動産屋さんに言って大笑いされました。でもいい案だねってそういう時代は来るかもね!って。そうならないのは常識とかルールがあるからだけど、タイランドだったらそれを相談できるような気がするのです。

悪く言うと適当、よく言うとフレキシブル。地獄の沙汰も金次第でも、あなたの話は聞きましょう、と閻魔は言ってくれるように思います。

これまたそうしてくれるのは、いい人だからじゃなくて、結果、自分の得(徳)になるから!っていうのがいい。人になにも与えることが出来ない人こそが与えられるものってのがあるんです。

 

お金を払うあれこれで見えてくること。

これはタイランドの常識ではなく、私の主観です。私から見えてるタイランドのほんの一部。