小事争論 こじ

アジア服・南国よろず屋ままかのボス。まだときどきちゃぶ台をひっくり返したりするけどだいぶ穏かになりました。

あなたのためを思っている人はない

 

むかしむかし私が小難しい(ウケの悪い)ツイートをした時に、必ず「いいね」して下さる方がいて「わ、今日もいいね下さった」なんて少なからず嬉しく思っていたことがある。「これが分かるって凄いな」(偉そう)その方は個人事業主で社名のアカウントでありながら、けっこう突っ込んだ議論の場でも意思表明の”いいね”をされるので「あれはすごいねぇ」とお友達に言ったら「あぁ、あの人はフォロワーさん全員に”いいね”してるらしいですよ。全然中身読んでないんですって」とピシャリ。冷や水を掛けられた。その友達もどうかと思うけど、遠くでも分かり合えてるだなんてって思っていた自分が、少し悲しく、恥ずかしかった。

 

  f:id:mamakaboss:20210430220408j:plain

 

それからなんとなく、社名や店名アカウントの人を観察するようになった。バンコク・ツイ廃チームとお店は、とてもいい関係だなぁっと思っている。ライバル店同士も仲が良さそうだし、covid絡みのSOSも素早く周って相変わらずバンコクって人間関係に理想的なキャパシティなんだと感心している。スクンビットにパ田中ーんを入れていいのかどうかはアレだけど。

 

そんな中、あるツイートが回ってきてかなり引っかかった。

これは私たちツイ廃のリテラシーについての話だ。

文章を紐解く力のおはなし。

 

実は私本体は”南国よろず屋ままか”という媒体の社長で20年。

いちお個人事業主✋

なんで「アジア雑貨ままか」じゃなくて「南国よろず屋」なのかって言うと、あのタイの道端にありますでしょう?掘っ立て小屋みたいな総合店舗。たばことお菓子売りながら、ツアーの紹介もして、ランドリーも受け付けているあれ。毎日の商品アップだけじゃなくて、旅行情報やタイ語教室、突撃オフ会、掲示板オークションなんでもあって、毎日覗くのが楽しみになるサイトを目指してた。

洋服の1枚1枚、雑貨ひとつひつにもドラマがある。少数民族の村の子どもが何キロも歩いてバッグを届けてくれたり、工場で3mにも積まれた生地の上を走ったり、疾走するバイクからみた風景、親切にされて泣いたこと、とても黙ってはいられない。「ananを裏から開かせた女」よろしく私も、誰かが会社でパソコンをonにしたら、私のコラムから1日を始めて欲しい。そんな気持ちで書き続けた。仕事も、政治も、子育ても、何でもここに書く。それらはみんな繋がっているひとつの暮らしだから、分けられない。だから楽しいし、それが南国よろずやままかなのだ!

 

 そんなわたしが「お店と個人のアカウントは分けた方がよい」という進言を見た。

 

本文の中には「もし~だったら」の仮定を元に、SNSが分からないなら無難に使ってローリスク取るべき、とか書いてあった。無難を勧めるだけあって、書いてあることも無難だ。だけどなぜこの方が進言する立場なのか?これをさせたい意味は?お店の個性に関わる大事な選択をなぜ。

 

教えて頂いたリスクなんて言われるまでもない。でもそれを差し引いてなお「あるがまま」に話すことは楽しい。店アカで自分の考えを語れてそれを楽しいと思えるなんてのは、それはもうその人の個性だし適正よ。結局、そんなのが好きなお客さんが残ってくれて、やがて自分にもその人たちにも居心地のいい環境がゆっくりと出来上がっていくんだから。リスクとかイメージダウンとか怖くなったら自分で考えて止めればいいだけ。失敗じゃなくて全てが過程。誰にも叱られない代わりに間違えたと思ったら、自分で修正して進んでいくのがひとり親方の醍醐味だもの。アカウントだって好きに使うわ。

 

  「お店のことを考えて提言している」とある。

そっか。

バンコク中のお店のためを思って・・・って、これさぁ、みんなあれ?っと思わないのかな。

この ”いいね” の数~!

日本語を生業とされている方までが賛同している。”お店を守りたい気持ちが伝わった” ”共感した” ”愛情のこもった発言だ” え!?そうなの!?www リプは私にとって、元ツイ以上の破壊力だった。本気(マジ)??

 

さて 「あなたのためを思って」だけど

 

これは、相手の口を塞ぐ代表的なパワーワードだよ。

あっちゃんの動画もすごくわかりやすい。
元ネタの森山先生のご本をぜひ読んでください。

 

今まで幾度となく言われてきた「あなたのためを思って」という言葉に、モヤりを感じてきたのは私だけではないはず。そう、相手を思って言ってるようで実は、他の選択肢を与えない呪文。「絶対これがいいよ」「私の言う通りにしてれば間違いないそ」と相手に考えることを止めさせて、自分の要求を通そうとするのだ。だから「じゃあ好きにすればいい」その後に「何があっても知らないけどね」と続く、強烈なコントロールが隠れている。「あなたのために言うけど、そんな怖い話しない方がいいよ」とか「怒ると損ですよ。敵と同レベルになっちゃうじゃないすか。あなたにとって損ですよ」とかね。ほんとうは自分がそれを聞きたくないだけなのに、自分の耳を塞がずに、相手の口を塞ぐ。あなたのためを思ってと言っている人に、あなたのためを思っている人はいないんだよね。主さんが、本当は何を求めていたのか私にはわからないんだけど、そもそもあまりそう言うことを意識してなければ、流れで書いただけでそんなつもりはないと仰るだろう。この方どうこうより、この風潮を軽く"いいね"してしまう世の中がツラい。きっと私もいつかどこかできっと言ってるし、そして何度も聞いてきたことだから、自戒も込めコントローリングな自分を反省したいし、今度その言葉を掛けられたときには、オタオタせずスパッと気付きの一撃を打てるようになりたい。

 

しかしつくづく思ったのが、こういう言葉ほど、古式ゆかしい日本人は好きなんだよ。やっぱり「口を塞ぐ言葉」って自制を求めるものだから、”慎ましさ”とか”お行儀”とか”我慢”なんかと癒着しやすい。冷静で賢い意見にも見える。

 

「うーん、どちらにも問題がありますよね」とか

「・・・言い方。そんな言葉つかったら話は聞いてもらえないよ?」

「それ言われちゃったらなんも言えね」

 

あーこういうの毎日見る。言っちゃった!なんて人もいるでしょう。

「まぁ言うてもあれや、そんなんいつも使ってる言葉やん」って言う夫たちの声が聞こえてきそう。その些細な釘サシも、話そうとしている人の口を塞いでいる。こうやって、考えない方が楽な状況が日常には溢れている。ツイッターにも溢れている。

こういう言葉は、支配する側の人間に都合の良いものだから、子どもや奥さん、生徒、部下「見下し」の対象になりやすい人が遭遇しやすい。文字面は”中立”にみえる(もう中立ってだけで正義だと勘違いする人も多い気がするなぁ)そして冷静で正しくみえる。最もいやなのは「問題の本質には言及せず、話をずらす」こと。例えば、本題の議論にたどり着く前に、ひとつハードルを置くの「言い方!」「声が大きすぎ!」「バカって言った?」とか。小さなつまづきを指摘して、それを解決しないと本題に入りませんよって条件を出してくる。それにまた引っ張られたオーディエンスが「失礼だなぁ」「さすがにバカはない」と、つまづきが大事件化し、どんどん相談者は無礼者化する。「人としてダメ。あなた議論以前の問題!」って、たーーーっと本題は流されてしまうのだ。あげく「あなたにも悪い所があったんだから」と斬りつけられ終了。なんとなく、相談や、苦情を言いに行ったのに、叱られたような気分になってトボトボ帰ってくるのは、このずるい言葉のシャワーを浴びてしまったからなんだよね。若い時は、いっぱいあった気がするよ。

 

私たち個人事業主は、いつも「より良い社会」について考えている。大袈裟でなく。なぜなら、この不安定な社会の波に揺れる小舟の様な存在だから。天候も祝日も政治も道路工事もなにかも営業に関係があり、影響を受ける。今日こそは凪でありますように。その風の冷たさを強さを一番最初に感じ、いい時、悪い時、変わらず日々同じことを繰り返して息をしている。それは世を映す鏡のようなもの。思わず口から苦しい言葉が溢れることもあるけど、それこそが世の声そのものなのだ。でも声はなかなか届かない。だからだんだん声が大きくなる。なんだか聞いている人は怖いかもしれない。不安を感じて知りたくない人だっている。大丈夫だよ。そしたらしっかりと耳を塞いでも罪じゃない。

 

だけど、口を塞ぐことだけはしないで欲しい。

 

誰にも強制されてはいけない。私達は賢くて、能力があり、対等に敬意ある扱いを受ける権利がある。周囲を気にせず、堂々と「これおかしいです!」と意思表明をし「わたし困っています!」と大きな声で言っていい。

  

あなたが口を塞がれて傷ついてしまったら「私は、そんなことされていい人間じゃない。尊厳ある、賢くて、勇気のある自分だ」ってことを思い出して。

 

今日もポロっと出ては、あなたを閉じ込めるずるい言葉。

さっと分かって、すーっと押し返せるようになりたいね。

 

いいねは意思表明。

大事にエールとして送りたい。

誰かの口を塞いでないか気をつけよう😔