小事争論 こじ

アジア服・南国よろず屋ままかのボス。まだときどきちゃぶ台をひっくり返したりするけどだいぶ穏かになりました。

初めての赤ちゃん

昨年の1月に流産をした。 ダーちゃんと付き合って10年近くの間、コウノトリからは 何の音沙汰もなく・・・近所の病院で半年程タイミング指導を 受け、ダメなのでちょっとした検査を受けて、試しに人工授精 をしてみて。この頃は不妊治療の事を何も知らなかったから 人工授精?ってだけでびびっていたっけ。 検査から人工授精までが一足飛びで、自分達が何をしてるのか 何処へ行くのか、気持ちが全然追いついていかないので、 ひとまず落ち着こう!と逃げるように治療をお休みにしたのだ。 なんと、逃げたとたんに驚きの自然妊娠。 年齢も年齢なので、何があるか分からない。 いろんな覚悟をしていないと・・と思っていたが、無事に心拍が 確認され、ほっと一安心。いろんな人にお知らせしてしまった。 そのとたん、終ってしまったのだ。9wだった。 つわりも続いていたし出血も腹痛もなかったから、なんの心配 もせず、楽しみにしていた検診の日「参ったな。心臓止まっちゃ ったよ・・・」と先生が言った。 そのまま手術まで一週間、死んだ赤ちゃんはお腹にいて、やはり 降りてくる気配もないまま、掻爬された。 「何があるか分からないから」なんて言いながら 出来たものは産まれるものだ、と思っていたんだと思う。 そんなこと、全然なかった。 赤ちゃんが産まれてくるまでには、もの凄いたくさんのプロセス を経て、それもひとつたりとも失敗できない、飛ばせない課題を たくさん乗り越えてやってくるのだから。 初期の流産は、お母さんに問題があるのではなく、ほとんどが 赤ちゃん自身の問題だから、自分を責めてはいけない、と 言われたが、自分を責める理由は限りなく湧いてきて私を苦しめた。 私が安易に母親になれると思ったその罰が当たったんじゃないかとか、 赤ちゃんが私の子になるのが嫌になって帰ってしまったに違いないとか。 それでも日々を淡々とやり過ごそうとしていたけれど、不条理と 喪失感は満ち満ちてきて、それはやがて行き場のない怒りになった。 火の様な怒りで世界中を呪った。 頭と心はばらばらで、感情をコントロールするのが苦しかった。 お腹を空っぽにしてから一週間後、怒りはピークに達していた。 堪らずその事をダーちゃんに話すと、彼は静かに泣いた。 二人で泣いた。初めてわんわん泣きながら驚いた。 だって、それまで私は、心から一緒に残念がってくれ、悔しがってくれる人がいるって事を知らなかったのだ。 私は横にいる彼を無視したまま、一人で怒り続けてた。 彼だって傷ついていたのに。 本当にごめんなさい、と思った。 あのやり場のなさはホルモンのせいだったのだろう。 だけど狂った頭で考えた事は、実は間違っていなかったんだと 今になって思っている。その怒りや悲しみはむき出しの素直な 気持ちで、あの時に私を救えなかったものは、恐らく私を これからも永遠に救わない。 この気持ちから逃げ出すには、赤ちゃんを手にするしか方法は ない気がした。でも実はそれは赤ちゃんを利用して、自分を 誤魔化すトリックでしかない、とも理性は気付いている。 まったく単純で、甘いのだ。 たぶん、だから親になる資格がないのだろう、と思った。 それからはまた淡々と仕事して、思い出す度に少し泣いて、 本当に少しずつ、元気になった。 やはり私は相変わらず至らない私で、どうにも甘ったれだが、 自分が親になるって事や、自分達にとって子供ってなんなのか 生きるとか育てるとか、そう言う事をずっと深く考えて 感じるようになったと思う。 それはやっぱりこの子のお陰だし、なにより短いけれど幸せな 時間をくれた大事な人なのだ、と思えるようになった。 怖いけれど、もう一度「子供」と向き合ってみようか。 でも、私はますます年を取っていた。 たった一年だけれど、この年にとっての一年は重い。 「卵子は日一日と年を取っていく。一月でも早く卵を」と 言うのは定説だ。 また自然に妊娠するかも知れないけれど、何しろ10年に一度の 妊娠だったのだし、それには何か理由があったのだろう。 治療も40代になれば、ますます出生率が低くなる。 このまま待つよりも、むしろ早めに治療に挑戦した方が良いのだろう。 お金がなくなったらコウノトリを待つしかないけど・・・ ・・・・・確率は、あくまでも重篤な方もそうでない方もくくっての確率。 40代からの治療で赤ちゃんを手にしている方もちゃんといらっしゃいます。 年、年、と私が焦っていたのは、自分の体力のなさと自信のなさからくる ひがんだ主観です。