小事争論 こじ

アジア服・南国よろず屋ままかのボス。まだときどきちゃぶ台をひっくり返したりするけどだいぶ穏かになりました。

繋がり

移植完了後は、そのままの姿勢で、もちろんおしっこも 我慢したまま、30分程安静を取らされる。 案の定、足がだんだん冷たくなってきた・・・。 それ以外は文句なしだ。 採卵と違って移植は痛くないので元気。 元気の安静、それはとっても退屈だ。 シーンとした部屋の中、足とおしっこから気をそらすために 妄想にふける。 わざわざ余計な心配をしたり、仕事の事を考えたり。 ふと、じいちゃんの13回忌が近いことを思い出した。 じいちゃんが戻ってくるんだったら、やたらひょうきんで 面白い子に違いない、思わず小さく笑ってしまう。 蛍光灯に手をかざすと、手の甲にシワが寄って垂れている。 形といい、大きさといい、ばあちゃんの手に良く似ているなぁ、と 思っていたら、急に足がふわっと暖かくなった。 誰かが手のひらで足を包んでくれたみたいに。 ばあちゃん?と思ったけど、去年亡くなったのぶえ叔母ちゃんの 顔が浮かんできた。 昔こうやって足をさすってくれた人だ。 もう片方の足を一番仲が良かった八重子おばちゃんが触っている。 ぐるりと死者に囲まれた。 無麻酔だから朦朧としていないし、超常現象でもない。 ただ私の頭の中で閃きの様に死んで行った人達が浮かんで くるのだ。応援に来てくれた、と言うより応援してね、と 私が勝手に思っていたんだろう。 この頃、そして今も、死者と向き合うことが多くなった。 「子供が欲しい」と言うことは命の事を考えることだ。 だからか、いろんな場面で現れては話をする。 自分自身が両親だけでなく、たくさんの大人達に愛されて いろんな時間を一緒に過ごし教わって生きて来たのだなぁと つくづく思う。 「こんな時ばあちゃんだったらなんて言うかなぁ」と度々 思い、誰もが私の中に生きている事を感じる。 自己実現に向かう道は多様で、何も無理して子供を作る事だけ が幸せではない、と思っていた頃より、素直に子供が欲しいと 思った頃位から、背を向けていた赤い命の繋がりがぱっと開け 私は自分が生きている事自体に有難さや奇跡を思うようになったと思う。 こうして命を繋いで来たから私があって、両親とその周辺の 人々によって私は作られた。 私はこの卵に、何を注いでいけるだろう。