太陽
イッセー尾形が演じる昭和天皇・裕仁の
原爆投下頃後から無条件降伏放送収録までのお話。
監督はロシアのアレクサンドル・ソクーロフ。
他二作品でヒトラー、レーニンを描いての三部作目で裕仁だ。
---彼は、あらゆる屈辱を引き受け、苦々しい治療薬をすべて飲み込むことを選んだのだ--
神として生を受け、神として振る舞い、多くの人々の上に立つことを
運命付けられた男が、国民を前に神を返上する事を迫られる、それは人間天皇にとって、日本にとってどういうことか。
この映画に作られた人格「ひとつの裕仁」は、善良で真摯でかわいらしい。
実在したご本人と照らし合わせる術はない。フィクションである。
まずは印象的で守ってあげたくなる様な御仁である。
歴史的な大テーマを扱うかに見えて、一人の人間の小さな心の世界を
切り取られた狭いセットの中だけで撮っていく。
その演出やイッセー尾形と言う被写体からもまるで舞台芝居の様な味わい。
三谷幸喜も思い出されるし、小津安二郎的でもある。
「繊細で優しく人間らしい裕仁」までは監督も意識していたと思うが
監督が意図して醸し出しようのない緊張感をイッセー尾形が見事に演じた。日本人にとって天皇を演じる事が、どれだけの意味を持つか。
日本から放射される怨念と、俳優としての自意識、日本人としての自我、
いろいろな意識を反射して立つ裕仁が、あのようにチャーミングであったとは。
ちっともユーモアを欠くことなくやり過ぎる事もなく、いい塩梅のまま走りきる事が出来たのには強い情熱と精神力を感じざるを得ない。
それにはまた彼自身が彼なりのきちんとした歴史認識を持っていて、理知的にして博学、そして様々なイデオロギーに対してのバランス感覚に優れている事を示している。また、そのバランス感覚で自らを守ったようにも思う。
好きな事をしながら、世情に負けないと言うことは大変なことです。
まず、見れば見るほどだんだん裕仁を裕仁と思えない、どっから見てもはなっから終わりまで、その人間性はイッセー尾形、彼そのもの。
それは演者にとって褒め言葉にならない酷評なのかも知れないが、それがけして不快なものではなくある種の安定感ある人格の裏づけとなっている。
マッカーサーから見ると、むごい惨劇の渦中にある日本にありながらピュアで子供の様な天皇がとても奇妙に映る。また、傍若無人で非礼極まりないアメリカ人の野蛮さが日本を敗戦国として映す。そのリアリティはロシア人ならではの視点かなと思われた。
公開前から話題になっていて、けして興行成績が悪いと思えないのに
先駆け公開に名乗りを上げたのは銀座シネパトス1のみだった。
その後話題が話題を呼び、100館近い劇場で公開されるようになったが
ともかく、そのいろんな心配ばっかりを先へ先へして逃げ腰になる日本と言う国のくだらなさには閉口。
どんな考え方の人も、ひとまずフィクションを楽しみ、議論が出来るようなそんな成熟した社会になる事を望みます。