小事争論 こじ

アジア服・南国よろず屋ままかのボス。まだときどきちゃぶ台をひっくり返したりするけどだいぶ穏かになりました。

私の彼は。

と、言うことで

決定いたしました!がーん!

しこり発見からわずか3週間あまりであっさりガン患者になり、また決定時にはすでに摘出済みというね。

貧しい乳1/4ほど切っただけゆえ現在もピンピンしております。ガン患者がガン患者っぽくなるのは、化学療法が始まってからなのでしょうね。

で、一山超えてほっとしたのもつかの間。

今度はリンパを取るために再度オペに臨みます。

確か前回のこじで、「一度開いたら摘出・検査・シリコンまでワンパックで一度切るだけで全部終わるらしい!タイすごい!」って言ったはずなんだけど、今回わたしのはそれじゃありませんでした。そしてそのワンパックは特別すごいって事でもなく、現在の一般的な手術法なのだそうです。

しかし私のおじいちゃんのやり方はその流れにまったく乗ってなくて、ネットでも見当たらない。昔ながらなのか未来なのか?教えて!ドラえもうん!

本音を言えば、せっかく全身麻酔してんだから、その最中に検査してヤバそうならどんどん切っちゃって欲しかった。しかも検査すらせず、何に集中してたかっていうと貧しい私のおっぱいの整形に力を注いでてさ、周りの脂肪を掻き集め美しく盛り上げ・・・縫合してしまうなんて、なんて私のニーズ知らず!私はぜんぜんおっぱいに未練なんかなかったのにさ!

通常はこの切ってる間に「センチネルリンパ生検」と言う検査をします。これは見張り役のリンパだけを取り出してここまでガンが辿り着いたのかを知ることが出来るというもの。狙いは無駄にたくさんリンパを取ってしまうことで起きる浮腫や炎症などの日常抱える不自由を軽減させる事が出来るという、画期的なものなんだけれど、しかしこのセンチネルはアイソトープを体内に入れて系脈から発生する放射線を追いかけて切除するのです。顔見るたびに「放射線治療はしたくない!」と言ってる私が拒否らないわけがない、と踏んで敢えて避けたのか?と深読みしてみたりですね。

「僕はセンチネルはまったく信用してないんだ」

って、言ってたからただその一言に尽きるのかもしれないですけどね。

とにかく、幸か不幸かアイソトープは入れずに済み、その分痛い思いを2回してリンパを診るんだか取るんだかするんです。彼は「ガンは非常にシンプルで顔つきも良く、オペは最高だったし、90%以上大丈夫。だけどガンだからリンパ切ります」と。

笑顔で説明。

質問すれば、「なんでそんな事聞くの?そんなこと決まってからでいいじゃない!」と笑顔ではぐらかし、ちょろっとヒントみたいな事を言うんで「こいつ全部わかってんな」と思うんだけど、私も彼が目の前にいる時にはなかなか鋭い質問が思い浮かばず、その記憶を頼りに家で調べて、だんだん疑問が湧いてくるのですわ。しかし彼にはなかなか会えないので、日本にいる貧乳腺外科の友人にLINEで質問しながら、自分に起きていることを少しずつ想像していくという・・・・

あくまでも憶測。まぁまぁこんなもんかってとこに自力で辿り着くわけ。

貧乳腺外科の友人のアドバイスを元に想像しうる私の解釈としては、現況は残念ながらリンパ転移はないと断言できず注意が必要な状態。じいちゃんは切ったブツを検査に出す前からすでにどんなもんかの予想は建っており、転移はほぼあると見てセンチネルは不要と判断。しかし予想は予想、検査結果を待つとして縫合。とにかくじいちゃんは出来るだけ切らない方針なようです。その後ガン確定したので改めてリンパを取り、正確な数字を出して今後の治療方針を決めると。いうか私に納得させると。化学療法に向け現実を目の前に晒すって、とこですかね。

まな板の上にしっかり乗っております・・・・

知りたがり屋の怖がり屋としては、もう微細にやり方から状態まで知りたくてたまらん。

バムルンラートの通訳さんは素晴らしかったなぁ。ドクターが語っている様に聞こえたもの。ここは私が来るってのに帰っちゃってんですよ通訳。なんとか電話で捕まえてもじいさんが「彼女は英語話せるだろう!通訳うざい!断って!」とナースを押し返しちゃう。「僕ら、2人でゆっくり話そう。ね!」って。

悩みの質がですねえ、「いつもすごく機嫌が良くて楽しいけど、なに考えてるのかよく解らないドSの彼氏と付き合ってる」みたいな、本質とかけ離れたところにストレスがあってですねえ、私はガン以前にコミュニケーション問題に立ち往生したまま、現実だけがどんどん進んでいるんですよ。言ってみれば、今のところ彼は私を愛しているし不都合もない。考えてみれば何もかもうまくいってるわけだから「愛してる」って言葉を信じて一緒にいるしかないの?っていう。甘酸っぱい悩み・・・なんで甘酸っぱい思いしてんだよこんなとこで。

そう「愛してる」は彼の言う「90%以上大丈夫って言ってるでしょう?!」って言葉と同義です。

このイマイチわからん「90%大丈夫」っていう浮き輪に掴まってどこかに漂着するらしい。

でもここ大事ですね。

親族にはこの「90%以上大丈夫」って言うとこをことさら強調して伝えていきたい。

根拠は彼の胸の中ですけど、そこは突っ込まない。

残りの10%はどこ?ってのも、突っ込まない!

本当にじいちゃんはおっぱいが大好き。そのしなやかな美しい手さばきでひとつも痛くなく抜糸し、病んだ乳を見ながらいっつも素晴らしいよく出来たいい感じ!と傷口を愛でております。世界中のおっぱいを救いたい変態じいが全戦全勝する事を祈ります。

皆様へ、ご報告。

ツイッターを読まれていないままかのお客様には初耳かと思います。

それからFBを読んでいる親戚一同はびっくりして聞いてください。

実は先週水曜日、ゴロ寝ついでに胸のしこりを発見。

ドクターに「大丈夫」と言われに行くつもりで翌日診察を受けたのです。

そこからわずか1週間でまるで自分の人生とは思えないような展開になってきています。

細かいレポートは後に廻して、まずミラクルな今日を振り返ってみたいと思います。

★本日のハイライト

私がセカンドオピニオンに訪れたのは、バムルンラートインターナショナル。

予約に食い込めず、キャンセル待ちして会えたドクターは、にっこりとかわいらしい年配女性C先生。

私はすでにいつも通っているBNHホスピタルに手術予約をブッキングしていたし、自分の主治医に

不満などなかったのだけれど、ちょっとこのまままな板には乗れない気がして話を聞きに来たのだ。

C先生にBNHがセカンドオピニオン用に作ってくれたCDをみてもらう。

そこにはマンモとエコーの画像が入っている。

私はカーテンの中に入り支度をしながら、通訳さんと先生のおしゃべりを聞いていた。

本当にこの通訳さんは素晴らしいタイ語を話す。

感心しているとそーっとC先生が入ってきて着けようとしたゴム手袋をぽっと落とした。

くすくすと先生が冗談を言うとアシスタントと通訳さんが笑う。

和やかな午後のお茶会みたいだ。

再びデスクへ戻り、エコー画像と先生に向き合う。ゆっくりとC先生が優しい顔のまま言った。

「右乳1cm程度の腫瘍は90%悪性だと思います。それから左乳にも2mm程の腫瘍がありますよ。

将来変質する可能性は3%程度だと思いますけど、でもどうせ全身麻酔でのオペになるので、

同時に取ってしまってもいいと思います」

残酷なセリフが流れるように聞こえてきた。

「オペ中に摘出したしこりを生検します。30分ほどで悪性かどうか判明しますので、

それがもし悪性だった場合は★部分摘出後に放射線治療 または ★全摘 か、選んでください」

ちなみに、悪性だったらさらにリンパまで追いかけて転移を調べ、さらにシリコンのセットアップも手術終了。

なんてことバンコク。1日で全部終わらせてしまうのだ。

「部分摘出だと見えない小さなガンが残っている可能性があるので、放射線治療をします。

全摘であれば放射線をやらずに済む場合もありますが、リンパの転移がわずかでも認められれば、

放射線治療は避けられません」

私ががんシュミレーションする中で常に難問だったのがこの「放射線治療」「抗がん剤」だ。

もしガンと診断されたらすぐに、この副作用と言う名の被曝症状と戦わなければならない。

それも誰かの既得権益の為に!日頃はそう思っているかなり真剣にね。

だから自分だけの体だったらもちろんやりたくない。

しかしこれがもし自分の体でなく、子どもや親で「まだ初期段階なのでやれば必ず治りますよ。

最新のマシンは副作用も極めて少ないですから」と言われたらどうだろう。

自分の偏った思想で大切なものを亡くしてしまったらどうしよう。

すぐに治るはずのものをややこしくさせて死が近づいたら・・・物凄く揺れる。

苦しまないのならやらせてみようか・・・。

「抗がん剤はやりません。民間療法を勉強して自分で治します」そう突っぱね切れない私がいた。

そう私は私だけの体ではなく、まだ幼い子ども達がその存在を必要としていたから。

生き残れるなら全摘大歓迎。

間違いも正しいも抗がん剤もなんでもいいよもう出来ればやりたくないけれども!

現実的な質問をしながら、絶望を感じるよりもむしろ自分の知り得なかった衝撃事実に

にわかに興奮していた。ここにセカンドオピニオンに来て良かった。

C先生のエコー読みはホントにすごい。そして全てを教えてくれる。

「先生にオペをして貰えることは出来ますか?」

「もちろんです」

「しかし、実はすでに前の病院での手術日は決まっているのです。それはキャンセル出来ますが・・・

執刀医はK先生なのです。こちらの病院にも来られてますよね。それって問題になりませんか?」

室内の空気が一瞬息を呑んだように止まった。

「問題ありまん。でもK先生ならあちらでオペをされても良いと思いますが、もちろん私でよろしければ

すぐに予約を入れます」促されたアシスタントが2日後の日曜日に手術室を抑えた。

放射線治療と抗がん剤への抵抗感を話したら「最先端の副作用がない放射線治療のマシンがあるので、

放射線医に詳しい話を聞いてみてください」となって、やっぱりそうなってww 

再びアシスタントは放射線医へアポを取りに。

私は待合での待機となった。先生に頭を下げて扉を閉めたその時、

通訳さんが私の腕をつかみ、廊下の端へ引き寄せ言った。

「K先生のブッキング、本当にキャンセルされますか?」

目が真剣で顔が紅潮していた。

「ご存知ありませんか?あの方はタイで1番の、いいですかバンコクではありません、タイで1番、

それこそ医者であれば彼を知らない人は絶対にいない権威です。切って貰いたければ6ヶ月以上待ちます。

私達スタッフですらなかなかお会い出来ない方です。診察も滅多にされないと聞いています。

それなのに上村さん診察から執刀まで。それも来週すぐにして貰えるってそれは・・・

ごめんなさい混乱させて。

そして完全に私の主観なので参考にはなさらないで下さい」

「でも、もし私だったら何も言わずに体をどーんと預けます。もうなんの心配もしません」

「じゃあ予約取り消しません」

「早いですね(´Д`)」

今日のところはこちらの予約まで話を進めず、放射線医の話を聞いて帰る段取りで行こうと話し合い・・・

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我が家はいつも近所のBNHホスピタルを受診する。

たまたまそこに意欲的なブレストケアセンターがあったので、迷わず「大丈夫」を聞きに行った。

しかしすぐには白黒つかずに、数日待たされた後K先生に引き合わされたのだ。

通訳さんが席を外してすぐに私の診察室へ、破顔の笑みで入ってきたK先生。

なんて、美しいおじいちゃま。

「お待たせしました。質問するよ。それで、あなたの家族に乳がんの人はいますか?」

通訳ナシでどんどん彼の質問が続く。

応戦しているとすっかり質問が終わった頃に通訳さんが慌てて入ってきた。

素晴らしかったのは、彼の触診。

なんとも言えない繊細さ、優しくエレガントですべらかで。

「これ、もし良性でも取った方がいい。」と言った。悪性でも良性でも取るとなったらやる事は同じ。

「あなたはまだ若いから」と部分摘出を勧められた。

この日は手術の段取りを説明されながら「怖くないから」と何度も言われオペの気軽さや

温存の方向でしか話はしなかった。

K先生はこれは悪性だと思いつつも、生検に出すまで何も言わずにいる人なのかも知れない。

それにしても私はこの日の通訳さんとまったくリズムが合わなくて、うまく話を聞き出したり

思った通りにしゃべったり出来なかった。

ファーストオピニオンは消化不良だった。

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放射線医から「今日は予定いっぱいで会えません」との連絡が入った。

今日はオペの日取りを決められないね。

私も動揺してしまっているので帰ってゆっくり考えます。そうね、それがいいわね。

深く頭を下げてドアを閉めようとしたその時、C先生が半身を乗り出して

「大丈夫よ!怖くない、怖くないからね!」と手を振ってくれた。

運命はこちらへ手招きしたりあちらへ引っ張ったり、私を何処へ連れて行きたいのか。

酷い宣告をされた。しかしそんな事はすぐに我が事と感じることが出来なかった。

でも、今日目の前で起きた全ての場面が面白くて仕方がなかった。

私が何を選んでも、今日のキャストに必要のない人など一人もいなかった。出会いって凄い。

出会いのパワーでむせ返りそうになりながら、幸福感に満ちていた。

その時LINEで友達から「髪型変えれるアプリあったで~画像見る?」と

閲覧注意的な顔乗せヅラ画像が6枚送られてきた。

kamiapli.jpg

笑っちゃいけないとほっぺたを抑えながらも頭が働かずなんとも気の利かない返事をした。

それからツイッターで出した求人に応募した友達からのハラハラDMに、ハラハラしつつも

これまたボヤっとした返事をした。それからそれから・・・と、

母や夫に電話する暇もなく友といつもの他愛のない会話をしていた。

それすら出会いパワーを放っていてとても嬉しかった。

雨雲に追いかけられながら必死で家に着き洗濯物を取り込んで、やっとランチにありついた。

子ども達を迎えに行かなくちゃいけない。

がぶっとサンドイッチをほうばるが、なぜかうまく入っていかない。

食欲が、ないみたいだ。と、そう思ったら少し涙が出た。

奇跡劇場から戻った普通の私は思った。

自分がいなくなるのって淋しいなぁ。って。

そして、6月16日火曜日に切ります。

タイ語でホームスクーリング その1

先ほど美容室におりまして数百メートル移動。

近所のカフェよりお届けしています。

  

なんと言いますか、タイ人って思い切りのよいお洒落を楽しめる人たちなので、お母ちゃんが金髪なんて「え?」とも思わないのです。まさかここまでやるつもりなわけないと思ってるよねって思ってるのは客の勝手。だいぶ放ったらかされてるなーと思ってふと鏡を見たらそこには金髪先生が。

 

明後日の日曜は、サウジアラビアに帰国する学校のお友達からお別れパーティーのご招待いただいているのです。それもなんとインターコンチでやるってんですよ・・・わーお、困った何着て行こうか?って以前にこのパツキンが。前回は運動会の前日だったっけなー。まるで張り切ってるみたいじゃないかー。

そうそう、このパーティー参加者は女子とマミーだけだそうです。ムスリムの女性は制限が多く日頃は人前でヒジャブも外しませんが、ガールズパーティーにするってことは、マミー達は弾ける気満々に違いない!

楽しみです~。ヒジャブ取って誰かわかるのか心配です~。

 

でだ。

 

お別れ会に年度末試験、そして2年生になる前にやってくる長~~~~い夏休み。

みんな退屈を持て余してサマースクールに参加したり故郷へ帰ったりします。

 

しかし我が家は今年、タイ語のホームスクーリングをすることにしました

 

6月7月の2ヶ月間、平日の朝3時間をタイ語で過ごします!

 

試しに今月は週に1回2時間でトライアル中なんですが、思いの外出来るのでびっくり。

先生が悲しい感じのザリガニ風カニを描いた時も、カニを描き直しながら「ปู」て書いていました。

つまりそこには学校で習う語学につきものの問題が。「読み・書き」上等も会話に生かされない。うーん、本当にもったいない。私が未だダラダラとおしゃべりに通っているタイ語教室には1日6時間ガチでやって3カ月位したチュラロンコーン大学の講義を受けねばならないと言うコースがあるんですけど、その人達も日本人らしく読み書きが先に出来るようになります。でもおしゃべりはなかなか難しいらしくて、先日も誰かを紹介され握手したまではいいが「インディーティーダイルーチャッカー!(棒)」(゜-゜)(゜-゜)・・・ で終わってしましました(:_;)

いやいやどっちが先だってOK。一歩踏み出したら二歩目いきましょう!

 

<タイはタイ語>

格言みたいによく言われる言葉です。実際、英語の上手なタイ人と話す時もタイ語しか話せないタイ人と話す時も、タイ語で話すととても盛り上がります。それ以上に、タイ語さえ出来ればお金を掛けずにタイ人と同じ待遇を受けられることは多いのです。豪華なインターナショナル病院、素朴なローカル病院。もちろん豪華絢爛は気分がいいですけど、質素でもスタッフが気さくで先生もちょいちょい顔を見に来てくれてるローカルにはやはりタイならではのホスピタリティが感じられます。どっちもいい加減度は同じくらいですからね。いつか今の補償レベルの保険が使えなくなったら、当然ローカルに行くわけですから、適当に話せないとやっぱり大変です。

 

もっとも痛切に、価格差を痛感しているのは教育費です。

まだまだ物価の上昇は頭打ちになる気配がなく、学費も年々上昇中。来年はどうなることか・・・。

 

そもそも日本の教育に疑問が絶えなかったクチなんで、最初から日本人学校に行く気はなかったものの、日本人学校も我が家を遠ざける作戦らしくて、新入生からは現地採用、自営業家庭の子どもは受け入れ不可だって噂もあります。

それが事実だろうがなんだろうが、この学費ではまず無理。バス代含めたら卒倒する。ふわっと安めのインターを超えて行きます。

誤解されがちですけど、日本人学校は公立ではござんせん。て私立なんですよ。

しかしですよ、もしインターやタイ人私立に適応出来なかった子はどこで教育を受ければいいの?

どんな境遇であってもどこで暮らしても母国の教育だけは無条件、無料で受けられるべきです。

日本人学校が日本の子どもの受け皿にならないなんて吉ガイ沙汰!言い放って放置します。

 

で、放置したそれの次の選択肢は間違いなくインターナショナルスクール。

しかしバンコクのインターは高い!

白目剥く学費

良心的な学費

上の良心的な学費に近い我が校。もしその学校に通えなくなったら・・・

バンコクのインターは8割方タイ人で構成されていると言います。そういうとこへ行っちゃうと英語がタイ語訛りになっちゃうよなんて聞きますが、その分タイ語で日常会話は出来るようになるんだよね。

うちの学校の第二言語はアラビック。日本人はやらなくていいので英語と週3回のタイ語しか習いません。

もしお金がなくなった時、タイ語が出来なければ八方塞り。即帰国です。

 

実際、こっちに来てみなければ分からない事ってたくさんありますね。「タイの私立」なんてこっちに来たってなかなか思いつかないと思うんだけど、せめてバイリンガル校に入れてやる器量があればよかった・・・と思っています。バイリンガル校なら複数言語を習うのでお金がなくなった時タイ語の私立へスライド出来ますし、中国語を習っておけば他の国でも対応可。どうせゼロからスタートで安いインターへ行くお金があるならバイリンガルの方がいいっ!でもめっちゃ勉強大変そうっ!

 

タイ語の出来る子の選択肢は広く、公立、私立、インターと、何処にでも入学できます。

私立はインターの1/3程で通えます。そしてなんと公立は無料な上にタイ語が喋れなくっても入学可能。なぜ無料なのに日本人がいないかというと、日本人が来たくないからでしょ?だそうです(+_+) 

そう言われるとハイハイ!行きます!って言いたくなっちゃうけど、残念な事に公立にはイングリッシュプログラム(略してEP)がありません。私立にとってEPは儲け所ですから、わりと何処にでもあるようです。例の読み書き出来ても喋れないやつらしいんですけどね。

 

インターは語学学校ではなく英語で授業を受ける学校。英語ネイティブと一緒に机を並べて英語も算数も習うのです。会話は出来て当たり前、求められているのは教科の評価。やはり英語に対する意識はまったく違うものになるでしょう。子どもが英語のまま思考し語るネイティブに近い英語使いになるか、意外に英語上手だねって言われる東洋人になるか、このレベルの差を埋められるしっかりとしたEPを行う学校を探さねばなりません。

 

まぁともかくこのまま学費が上がり続ければ近い将来タイの私立へ行くことになるでしょう。

ちょっと高いけどここのEPはいいよ~ってとこがもし見つかれば、我が家の学費は現況の半分から1/3になります。語学を始めるならなるべく幼いうちの方がいい。そう思って転校先を焦って探したりもしたのですが、今度は今までやってきた事もまた大事なことだったと気付いたのです。現在、子ども達はインターに通って1年半目。英語の入口、苦しい所をやっと切り抜けたところで、ここで英語を放りだすのはやはり大変な心残りです。なので焦って転校するのは止めたのですが、いつでもどこでも行ける準備はしておきたい。ましてやタイにいるならどれだけタイ語をやっても無駄になることはないのです。

 

教育ママ的思考と言うよりは、サバイバル志向ですわな。

 

さて、長ーい解説になりました。

以上は、移住の相談をされた時に個々メールでお話ししてきたことです。ほとんどの方がお金の問題で移住が適いません。もしお金がなくて日本人学校にもインターへも通えなくて諦めているなら、そしてどうせ英語がゼロ地点なのであればタイ語だって同じこと。タイ語から始めてみるのは悪くないです。世界に羽ばたく言葉じゃないけどタイはタイ語です。礼儀や挨拶はインターよりずっときちんと教えてくれます。先生の顔が近いww

 

で、我が家のタイ語ホームスクーリング。

どこまでいけるのか乞うご期待。

もちろん私も横から聞いて「そうか!」と思う事が多々でしょう~

つれづれご報告をして行こうと思っています。

楽しく学ぼう!

ちょいちょい働いてはいる

すみません~~居留守使って~~

え?留守のクセに居るふりするなって?

いますいますヾ(゚∀゚)ノ ハイハイ!

もうそろそろ真夏物いっていいっすよね~

ご用意しております。

しょしょお待ちを~

ネパールを想う

今日は、素敵ジムのヨガ、その後のご報告をしようと思ったけどいったん封印。

ままかと縁の深いカトマンズ近郊が震源地の大地震。

都市部で瓦礫をどければ死者はまだまだ増えるだろうし、国境近くやヒマラヤの麓の捜索に入らなそうな地域にも実は人が住んでいるので、被害は想像を絶する。

心配でたまらず映像を追うと、その混沌とした大勢の人間の不規則な動き、大きなクラクションの音、祈り、泣き声

・・・いつもと同じやん(´Д`)

いやいやいやいや、良く見て。

見慣れた風景が一変している。彼の世界遺産が瓦礫と化しているではないか。埃だらけで命からがら救助された人はサドゥではない。ドキドキした。やはりどうしても4年前の震災を思い出す。

こんな風に海外の友人は日本の友を心配してくれていたのだろうかな。

それでも、ネパールの友人とはその日のうちにFaceBookを通じて無事を知ること出来、2日後にはLINEで話せた。すごい時代になったものだ!ままかをスタートした当初にはSkypeすらなく、何か問題が起きるたびに国際電話をしなくちゃならなかった。たった15年程度で通信インフラは目覚しく発達した。だいたいもともと不便な地域の方がこういったアイテムの恩恵をすぐに取り入れた。インターネット回線さえあれば出来る事が、どんどん吸収されていったと思う。世界が小さくなってこっちに迫ってくるみたいだった。ベトナムのSkype導入は早かった。ネパールはViberが来た。どっちも相手側から入ってよって言われた(笑

カトマンズの人達は、そうやって海外のメディアにも触れているし、日頃は山登りや観光に来た外国人を相手に仕事をして、お金がたくさんあれば買える物も増え、出来る事も増えることを知っている。

お金にまみれて笑う商人はたくさんいる。政府もしかり。

それでも基本的にネパール人の「そう言う人こそ軽蔑すべきだ」という傾向は今も変わらないと思う。

働くのは家族のため。お金は家族の家を買うため。子どもの教育費。老いも若きもマレーシアへ泣きながら出稼ぎに行き、歯を食いしばって働くのはみんな家族のためだ。

ネパール人はちょっと仲良くなるとすぐにお家に招待してくれる。どのお家も裕福ではないが、お膳を用意し、家族をすべて集め、いつまでも帰してくれない。

日本人(私)はずっと「もういいですよ」「結構ですよ」を繰り返すし「そろそろお暇」も100回くらい言うので、その度に悲しそうな顔をするけど1分で元気を取り戻して家族のアルバムなどを見せ始めたりするのだ。

仲良しの証に、自分の若いときの証明写真をくれたり(´Д`)私を困惑させる客引きのおじさん。

なんとかお金を工面して子どもを日本へ留学させる。その子を誇らしげにまた将来を心から楽しみに思うお父さん。

そのお家も石を積んだような不安定な壁の家で、身をかがめて階段を上がり、迷路のような廊下を歩いた。

ガイドの幼い妹弟は、喜んで私達を部屋へ招き入れ、大事に持っていたインスタントラーメンを沸点の低いお湯でふやかし卵を入れて食べさせてくれた。

どの家もどの家も素敵なお家だった。そして地震には耐えられないと思う。

ネパール人。その独特の人生観、価値観。

たくさんの神様に囲まれて、人と音と匂いが溢れ、男同士で手を繋ぎ、日がな1日チャイを飲み、真っ暗な中で美味しくご飯を食べる。「死ぬことなんか怖くない」と達観したような、しかし同時に子どものようなそんな目をして、誰もがもれなく微笑んでくれる。カーストがあっても、お金がなくても、神様と家族と友達と共に生きる人生。

お金を大事にする国の人達とは、まったく違う「極楽」を胸に秘めている。

その人達を「救う」とはどういうことか。

私たちは、いろんな意味で福島を救えずに4年過ごしてしまっている。

この支援は私達が見えなくなってしまったものを見る試練なのだと思う。

彼らには見えて私達に見えない「幸福」とはなにか。

私達が彼らに手渡せるのは果たして幸福か。

とにかく今は全力で彼らの生身が1人でも多く助け出されることを祈っていますが、

またしても、彼らに教わることの方が多い気がします。

これまた可視的な問題だけど、カトマンズに原発がなくてよかったね・・・・

電気は足りてない。短い滞在期間に何度も停電するのは普通のこと。

昔、ゴダイゴのライブのためにカトマンズ市内を停電にさせてライブ会場に電気を集めてやったって話があるほどで、でもその頃と電気事情はあまり変わってないように思われますねぇ。でもここに日本はまだ原発売り込みに来てなかったのかと。今回ので気付かれちゃったかな・・・・

とにかくどの国からもあてにされない「のび太力」これまたネパールの長所。

そんなネパールに愛を。

ネパールに祈りを。

(これらの出来事はすべてカイツケ日記に書かれています。ネパールを知っていただける一助となれば幸いです)

ソンクランを終えて 今年の反省

わざわざソンクランをゆっくりと楽しむためにホアヒンへ行ったのに、例年ホアヒンのソンクランは1日だけですっぱり終わりなのだそうです・・・いつもより濡れの少ないソンクランで今年は終了。

当初の計画では3日間フル参加では子どもが持たないのではないかと、繁華街から離れたところに2泊して2日目だけ参戦しようと思っていたのです。しかし思うように宿が取れずに結局ずっと繁華街にいることになったのが不幸中の幸い。あのまま浜のはじっこに泊まる計画だったら、たった1日だけの貴重なソンクランにすら遭遇できないところでした(`・ω・´)

はりきってソンクランの2日前から乗り込んでいる我が家。

ちょっと時間の掛かったドライブが老体に堪えました。昼に着いちゃったのにグズグズです。

初日の晩ごはんはナイトマーケットでソムタムプーマーやらヤムタレーやら。

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生の渡り蟹を入れたソムタム。新鮮じゃないと大変なことになります。

食べてる間も、ぼんやりしてると傷みそうだよ。パクパク食べてしまいましょう。

翌日はカオタキアブで海水浴。

高~~(´Д`)~~い、お馬さんに乗って、砂を掘って、波に浮いて。

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さぁいよいよソンクランです。

朝早過ぎて誰も応戦してくれませんが、ホテルの通りはスプリンクラーから水が沸いて、ソンテオで行きがかっただけの人までびしょぬれです。たまねぎを載せているトラックはその水に掛からないような位置で上手に信号待ち。

さて、では母は3ℓのタンクを背負って子を従えて海へ向います!

うぅやはり気が早過ぎて大した戦闘になりません。

そのうち海に到着してしまった。海まで来てしまえば誰も濡れるのを嫌がりません。そんなところで戦ってもなんの意味もないから海はもういつも通りのまったり・・・。ここで昼過ぎまでだらだらしたのでやはりソンクランはまだやってきません!

昼寝したりお菓子を食べたりなんだかんだ3時。

もう盛り上がってるだろう~~と言うことでシビレをきらした母は子を従えて再出発。

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ゲストハウスの立ち並ぶビーチサイドはそこそこ盛り上がっていますが、今度はちょっと遅かったのか人々は酔っ払い過ぎて意思の疎通が難しい感じに。

ゆっくりと笑顔で近づいてきたサドゥみたいな人も目が血走ってて、じっとしてたら優しくほっぺに白い粉を付けてくれました。酒くせえ。

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車の陰に身を隠しながら攻撃する双子。

いっぽう娘はもう疲れて泣き顔。父と共に後方に控え怖い顔して攻撃されないようにしてました。

なんとこれまた驚きなのは大きな車道では戦闘が行われないのですね。

うっかり大通りに出たらすぐホテルに帰り着いてしまったという・・・(´Д`)

それがまたタイミングの悪いことに、私達が出発した後ホテルも参戦していて、大きなカメに水をたっぷりたたえて盛り上がってるではないですか!なんだ海まで行かなくて良かったんじゃん!通りの向かいには特設ステージが出来てて、なにやら有名な人のライブ真っ最中。これがなかなかかっこよくて音も良くて(・∀・)私は大喜び。しかし「寒い・・・」と子どもらは終了宣言。まぁ明日も同じ様な一日があると思っていたので、私もこれにて終了と。着替えてしまったのでした。

で、あんた、翌日はフツーの日ですよ。

昨日のびしょ濡れライブ行っておけばよかった_| ̄|○

来年は素直にシーロムの水掛に参加しようと思います(・∀・)

ひとつ大きなトピックは、ソンクランのビーチで双子のおばあちゃんと出会ったこと!

すっごく素敵なおばあちゃんたち。

ノルウェーから来られたそうだけどタイ語も上手だったからこちらにお住まいなのでしょうね。

顔や表情はもちろん歩き方や後姿もそっくり!

うちの双子がおじいちゃんになっても仲良く旅行なんか行って欲しいなあ。

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快く一緒に写真を撮らせて下さいました。その撮影をお願いしてたらすぐに周囲もその意味を理解して「あ!すみません、こっちもいいですか?」「あ、私もいいですか?」とちょっとした撮影会になってしまいました。

今頃知らない人のFBにでも載ってるんでしょうかwww

暑い!ソンクラーンがやってきた!

在タイ日本人もすでに帰省したり旅行に行ったりしてる人がたくさんいるみたい。

今年は大型連休になるタイのソンクラーン(お正月・水掛け祭り)。13~15日が本番です。

我が家も明日から4日間タイの葉山と呼ばれるホアヒンへ水掛けに参ります!

タイって意外に連休少ないんですよ。

心がしょっちゅう勝手に休んでしまうから休ませてもらえないんでしょうかタイ人。

バンコクのソンクラーンも体験してみたい気もするけど、ファラン向けのスポットは子ども向けではなさそうだし、子ども向けの所はクソつまらなそうだし。

思い起こせば約20年前、バックパック旅行中ソンクラーンに遭遇してしまい理解するより先にずぶ濡れにされたのがホアヒン。うら若き日本人女子2名だったのですっかりからかわれ、本番を明日に控えた前夜に洗礼を受けたのでした。翌日の本番は帰国日でやり返したいのに前へ進むだけで必死。荷台に水ガメを搭載したトラックが列をなし、道行く人を無差別攻撃。水がなくなったら消防車が補充してくれます。日本人女子2名をタイ人男子が放っておくわけがない。トラックにお乗りよ僕の隣で戦いなよ笑おうよ歌おうよ踊ろうよの大騒ぎ。しかしこちらは帰国せねばならずずぶ濡れで駅へ向かい、パンツを乾かしながらバンコクへ戻り、真っ白けで空港に到着。CAに驚かれたのでした。もし帰国を延ばすことが出来ればど真ん中で参加したかった~~と言う思いから以降毎年ソンクラン通い。

バンコクに住んでる友達はみんなソンクランが嫌いで、籠城するんだそうです。どうかしています。

残念なことに子どもらもすぐにビビって帰る帰ると言う。どうかしています。

夫も連日参加を宣言する私をどうかしていると言います。どうかしています。

と、言うとで明日からお休みを頂きますよ~

水掛け祭りだけに写真を撮るのは難しいかと思いますので、後日文字だけでその迫力をお届します。

それでは皆様、サワディービーマイ!