今日は、素敵ジムのヨガ、その後のご報告をしようと思ったけどいったん封印。
ままかと縁の深いカトマンズ近郊が震源地の大地震。
都市部で瓦礫をどければ死者はまだまだ増えるだろうし、国境近くやヒマラヤの麓の捜索に入らなそうな地域にも実は人が住んでいるので、被害は想像を絶する。
心配でたまらず映像を追うと、その混沌とした大勢の人間の不規則な動き、大きなクラクションの音、祈り、泣き声
・・・いつもと同じやん(´Д`)
いやいやいやいや、良く見て。
見慣れた風景が一変している。彼の世界遺産が瓦礫と化しているではないか。埃だらけで命からがら救助された人はサドゥではない。ドキドキした。やはりどうしても4年前の震災を思い出す。
こんな風に海外の友人は日本の友を心配してくれていたのだろうかな。
それでも、ネパールの友人とはその日のうちにFaceBookを通じて無事を知ること出来、2日後にはLINEで話せた。すごい時代になったものだ!ままかをスタートした当初にはSkypeすらなく、何か問題が起きるたびに国際電話をしなくちゃならなかった。たった15年程度で通信インフラは目覚しく発達した。だいたいもともと不便な地域の方がこういったアイテムの恩恵をすぐに取り入れた。インターネット回線さえあれば出来る事が、どんどん吸収されていったと思う。世界が小さくなってこっちに迫ってくるみたいだった。ベトナムのSkype導入は早かった。ネパールはViberが来た。どっちも相手側から入ってよって言われた(笑
カトマンズの人達は、そうやって海外のメディアにも触れているし、日頃は山登りや観光に来た外国人を相手に仕事をして、お金がたくさんあれば買える物も増え、出来る事も増えることを知っている。
お金にまみれて笑う商人はたくさんいる。政府もしかり。
それでも基本的にネパール人の「そう言う人こそ軽蔑すべきだ」という傾向は今も変わらないと思う。
働くのは家族のため。お金は家族の家を買うため。子どもの教育費。老いも若きもマレーシアへ泣きながら出稼ぎに行き、歯を食いしばって働くのはみんな家族のためだ。
ネパール人はちょっと仲良くなるとすぐにお家に招待してくれる。どのお家も裕福ではないが、お膳を用意し、家族をすべて集め、いつまでも帰してくれない。
日本人(私)はずっと「もういいですよ」「結構ですよ」を繰り返すし「そろそろお暇」も100回くらい言うので、その度に悲しそうな顔をするけど1分で元気を取り戻して家族のアルバムなどを見せ始めたりするのだ。
仲良しの証に、自分の若いときの証明写真をくれたり(´Д`)私を困惑させる客引きのおじさん。
なんとかお金を工面して子どもを日本へ留学させる。その子を誇らしげにまた将来を心から楽しみに思うお父さん。
そのお家も石を積んだような不安定な壁の家で、身をかがめて階段を上がり、迷路のような廊下を歩いた。
ガイドの幼い妹弟は、喜んで私達を部屋へ招き入れ、大事に持っていたインスタントラーメンを沸点の低いお湯でふやかし卵を入れて食べさせてくれた。
どの家もどの家も素敵なお家だった。そして地震には耐えられないと思う。
ネパール人。その独特の人生観、価値観。
たくさんの神様に囲まれて、人と音と匂いが溢れ、男同士で手を繋ぎ、日がな1日チャイを飲み、真っ暗な中で美味しくご飯を食べる。「死ぬことなんか怖くない」と達観したような、しかし同時に子どものようなそんな目をして、誰もがもれなく微笑んでくれる。カーストがあっても、お金がなくても、神様と家族と友達と共に生きる人生。
お金を大事にする国の人達とは、まったく違う「極楽」を胸に秘めている。
その人達を「救う」とはどういうことか。
私たちは、いろんな意味で福島を救えずに4年過ごしてしまっている。
この支援は私達が見えなくなってしまったものを見る試練なのだと思う。
彼らには見えて私達に見えない「幸福」とはなにか。
私達が彼らに手渡せるのは果たして幸福か。
とにかく今は全力で彼らの生身が1人でも多く助け出されることを祈っていますが、
またしても、彼らに教わることの方が多い気がします。
これまた可視的な問題だけど、カトマンズに原発がなくてよかったね・・・・
電気は足りてない。短い滞在期間に何度も停電するのは普通のこと。
昔、ゴダイゴのライブのためにカトマンズ市内を停電にさせてライブ会場に電気を集めてやったって話があるほどで、でもその頃と電気事情はあまり変わってないように思われますねぇ。でもここに日本はまだ原発売り込みに来てなかったのかと。今回ので気付かれちゃったかな・・・・
とにかくどの国からもあてにされない「のび太力」これまたネパールの長所。
そんなネパールに愛を。
ネパールに祈りを。