小事争論 こじ

アジア服・南国よろず屋ままかのボス。まだときどきちゃぶ台をひっくり返したりするけどだいぶ穏かになりました。

孫の懺悔。そして深い感謝を。

先日、私のおばあちゃんが天国へ行ってしまった。

体の弱い人だったので、それ程長生きしない予感を誰もが持っていたのにも

関わらず意外にがんばり、やはり一病息災か1月で89歳になったところだった。

百伽を抱いてくれて嬉しそうな顔でカメラに収まっていたのが2010年。

以降、急速にボケてしまって身辺の人らからは会うのを控えさせられていた。

きっと会っても分からないし、変化も恐がるし刺激で疲れたりするだろうと。

棺の納まる小さい体。優しい寝顔は死を迎えたリアリティを帯びていない。

しかし聞けば死に際は尋常でない苦しみようで、看ていた母幸子や叔父の心に

傷を作ってしまうほどだったらしい。

もう何もわからないなら、苦しまなくてもいいじゃないか。

無理な延命は望まないとは言ったけれど、苦痛を取り除く方法はなかったのか。

その様子を回想する度に胸が痛い。

関東大震災を胎内で迎え16歳で母となり、大空襲後の下町で子ども達を育てた。

とにかく「母親が天職」の様な人だ。これほど優しいどこまでも優しい人を

私は知らない。

誰の事も怒鳴ったり威圧したりしない、柔らかい細胞だけで出来ている人。

子どもの頃、毎週末おばあちゃん家へ行っていとこ達と遊んだ。

ほんの二間しかない長屋の部屋で、まさに大人と子どもがぎゅうぎゅうに

なって眠りお互いの話が聞こえないから大きな声で話して笑った。

いい時代だった。

今思えばそれも子どもや孫の都合でなされなくなりわずか数年の蜜月だった

のだが。

日曜の夕方、みんなで下り電車に乗って帰る。

電車の中から荒川の土手で手を振るおばあちゃんが見えた。

「おばあちゃん!」

おばあちゃんが見えなくなるまで、いつまでも手を振った。

だっておばあちゃんがもう見えていないはずの私達に向かってまだ手を振っ

てるから。娘の幸子はいつもそれをせつないと言っていた。

確かに。あんまり優しくて自分の気持ちを抑え付けてばかりいるから、

おばあちゃんはいつもせつない感じがした。でも、本当はすごく強い人だった

からそれが出来たんだな。

おばあちゃんのでっかいおにぎり。

弟が入院したときも、魚屋で大忙しの暮れの最中も、ドリフの終わり頃

作ってくれるのも楽しみで仕方なかった。つねに期待は裏切らなかった。

弟が病気で小学校入学が1年遅れるかもしれない事態になった時、

おばあちゃんはその知らせを聞いて、外まで聞こえる大きな声で泣いたそうだ。

勤め先から帰って来た叔父が、通りまで聞こえてくる大号泣に驚いたと、

教えてくれた。

きっと私たち孫がいくつになってもおばあちゃんは同じ様に心配をして、それでも本人

には一言の苦言も助言もなく、ただただ心配をして見つめ続けていたんだろう。

激しい泣き声に象徴されるその熱い強さが、それを成させているような気がする。

怒った事もたくさんあったろうに。

本当に柔らかい柔らかい人だった。

私はやっぱり誰かに分かって欲しい甘ったれで、ちょっとの事でカチンと来る我がまま

でおばあちゃんの様な人にはきっとなれないなぁ。

なんだか、まだ思い出すとちょっと悲しいのが

大きくなるにつれ疎遠になっていった孫としての自分がすごく残念で。

家庭を持ってからは再び会うようになっていたけれど、それじゃ足りない気がして。

今の母幸子と自分の子ども達を見ていて思うのですよ。

手から離れていくと言う事は、もちろん当たり前のことで大人はよくわかっている

ことで仕方がないし、いいことなんだと。←でもこれは大きくなっていく子ども側の

いい訳だ。

自分を見つめるその子の目が、いつまでも変わらない光を帯びて自分を見つめ返して

くれたらいいのに、と思う。抱っこできなくなっても、手をつなげなくなっても

同じ顔して笑ってくれたらいい。

私はおばあちゃんにそう出来ていただろうか。

淋しい思い、させなかっただろうか。

お正月とか、銀座で映画とか、お買い物とか、全部の項目をもう1回ずつ位したら

よかった。

おばあちゃん

おばあちゃんが私の事わからなくなってるとこ、見ておけば良かった。