小事争論 こじ

アジア服・南国よろず屋ままかのボス。まだときどきちゃぶ台をひっくり返したりするけどだいぶ穏かになりました。

見て見ぬふりは役に立つ

 

いつも誰かに値踏みされているような感覚

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いつかの恥ずかしがり屋の女の子は、うまいこと学校にフィットして楽しくやっています。彼女は前回のプチ留学で大ままかバーへの一般参加を募集した時に手を上げてくれ、わざわざ日本からバンコクまで来てくれたんです。しかし大ままかバーの数日前にちょっと我が家でお会いした時に、うまく話が出来なかった、みんなに気を使わせてしまった、と落ち込んでしまい参加できませんでした。彼女はとてもきれいな女の子で、恥ずかしがる様だって可愛いの一言に尽きるし、実際うちの双子も同席していたんだけどちゃんとコミュニケーションが取れていました。もちろん、恥ずかしがり屋さんのコミュニケーションですが、それは受け取る相手にそう伝わればその様な距離で向き合うのでまったく問題ないわけです。「自分がどう見られているか」という呪縛は、日本人である私たちにすっかり浸食しています。認識することも難しいんですから、手放せと言ってもなお難しい。だいたい他人は他人の自我なんて興味なくて当たり前。消えたって居たって自分も他人も気にしなくていい。しかし監視社会で暮らしていると「他人からどう見られているか」を検証する為に自分が他人を監視してしまうんですね。もちろん、彼女の恥ずかしがり屋さんぶりがそこから来ているかどうかはわかりません。でも少なくとも、彼女そのものを歓迎し、したくないことはしなくてもいい、言いたい事は言ってもいい言わなくてもいい。実は居ても居なくてもどっちでもいい。どんな気持ちでいるかなんて自分にしかわからないし、それを咎めらるなんてナンセンス、と言う世界。彼女は恥ずかしがっていても恥ずかしがってることを考慮されないからこそ自由なんじゃないのかな。知らんけど。「~~じゃないのかな?知らんけど」がすごく大事。あなたの事考えるけど、あなたのことはあなたにしかわからない。あなたの事は誰にとっても知らんがな案件なんです。

 

守っている視界では見えないこと

それと同時に、親の監視、加護からの脱却にもトライです。

SISはいい加減なので、アレルギーの除去食などいたしません。一応、申込用紙にアレルギーの有無と品目を書いているけど、それを学校側があらかじめ考慮するということもありません。なんかあれ?て思った時に読んでな~ってつもりで書いてますけどね。

インターで学べることの中で「セルフマネージメント」これは大きなテーマだと思います。何をどれだけ食べていいのか、食べたいのか食べたくないのか、今迄日常の中でさんざん制限されてきている食について、お母さんの手を離れて自分で考える。まずは食べたくない物が出たら「No」とジェスチャーでいいから伝えること。SISは食べたくない物を食べろとは言いません。食べちゃいけない物だけど食べたい時はどうする?それ自分の体にとって食べ過ぎじゃない?お母さんの言いつけを守れるかどうかが大事なんじゃないのです。欲望に翻弄されながら美味しい物にウキウキしながら、今日は特別だ食べちゃおう!とかすればいいんだと思う。誰かに頼ったら生き延びられないの。それを食べたら自分がどうなるか観察して知ること。これは言葉にすると難しそうだけど、生きる為には「好き、嫌い」で小さいうちから自然にやっていることです。

食に限らず、やりたくないけどこれやるかやらないか。とか嫌いとか好きとかを言うとか言わないとか、そういうことももちろんです。先生はかわいい生徒でも大勢いればうっかり忘れる事もあるでしょう。毎回自分で言うんですよ。察してなんてくれません。「先生、わたし今日は体育したくありません」「また?」なんて言いません。だって先生はいちいちそんなこと覚えていないもん。本当は覚えているかも知れないけど、覚えてないと思っていて丁度いいんです。察してもらおうなんて相手のジャッジに自分をゆだねない。だってどうしても体育やりたくないのでしょう?そしたら毎回、自分で言う。「I don't do that」「I don't like it」

親子でどうしたらいいのか話し合ったり助け合ったりするのはいいことだけど、そうっとコントロールしようと暗示を与えないで、手放して遠くから見て見ぬふりすること。これは日本人の親にとって苦しい修行です。

 

うまくいくコツは、自分が遊びたくてしょうがないからとにかく学校へ子どもを送りだそう。そっちはそっちで楽しくやってくれ!と思う事に尽きます。母よ遊べ!