小事争論 こじ

アジア服・南国よろず屋ままかのボス。まだときどきちゃぶ台をひっくり返したりするけどだいぶ穏かになりました。

食べて応援してはいけない

ここのところ、どうにもあれ~?う~ん?と、ちょっとやりづらいなと思うことが多々ある。

いろいろあるって全部いっぺんに来るので、ごっちゃになってしまうのだが、ごっちゃにしてはいけないのだ。

地震と津波は自然災害だったが、原発は人災です。

原発事故の落とし前を正しくつけることは、人類にとって大きな課題。

事故そのものの事だけではない。私達一般市民のその後の動向は、試されるべきものです。

食べれば被災地の応援になる、と言う(屁)理屈。レトリックに本気で乗せられた?様に思われてなりません。私達はその良心に従い大雑把な計測で市場に出回った物を片目つぶってコツコツ食べさせられている。まぁ心配がないわけじゃないけど、仕方ないし・・・と。その行為、農家の応援どころか正しい市場のあり方を遠ざけ、ぬるい行政を許してることになりはしないかい!原発被害が少しでも食い止められたら喜ぶのは東電。補償を少しでも少なく出来れば助かります。今度はいい原発作ります!「風評被害をやっつけろ」「食べて応援」の声に隠れた大きなテーマを忘れてしまっていはいけない。本当に畜産農業をなんとかせねばならぬと思うなら、野菜を食べずに助けられる方法を模索しないと。一日も早く政府が被災畜産農家の補償をするよう強い民意を盛り立てて行く必要があるし、基金の設立、あるいは増税も余儀なしの覚悟がいるだろう。

原発事故の責任を私達が体を張って取っては(摂っては)いかんのです。

とにかくとにかく、子供に内部被爆をさせてはダメ!

まだ根幹が治まってないしね。長丁場になる。

こちらのスーパーにはもう西日本の野菜がほとんど見当たらない。食べて応援したい人も食べずに応援したい人も、東北・関東域から来る野菜を選ばざるを得ない。選択の余地なし!と言う異常な事態。

多くのお母ちゃん達が静かに西日本の野菜を探して駆けずり回っている。もちろん全然気にしていないお母ちゃんも当然いるのであるが、ここで気にしていないお母ちゃんの方がなんか「慌てず立派」な感じがするのはなぜ?

「野菜どうしてる?」と聞いてみると「もう考えると疲れちゃうから気にしない」って言う母ちゃんは多い。ネタ的には盛り上がるので、しばらく話すと本当はすごく心配だったけどどうしていいか分からないし目をつぶっちゃった派が実に多い気がする。買い物しながら「仕方がない」とか「疲れちゃう」って思うのはなぜ?

被災地の野菜を食べるのが人間として良い行為って常識が確かに構築された。野菜の産地を選んでいる事に罪悪感さえ感じられる。「今日は○マートに高知の茄子があったよ」と言うママ友との会話もなぜか小声だ。この思わず小声になる様な気持ちが、咄嗟に相手と考えを摺り合わせる事の恐怖を示している。私が個人の考えでしている事なのだから、変に知られて神経質だって思われてもイヤだし・・・。こうして同じ母同士であっても、ニュースの見方も、放射線量の数字に対しても、感受性がまったく違うようになってしまった。

野菜探してる気狂いと、考えるの止めちゃった馬鹿は、「子供を大事に思っています」と言う同じ方向を向いているにも関わらず、同じ方向を向いてる事を気付かないよう操作されている様に思えてくるのだ。「あまり神経質になると、お子さんに障りますよ」なんてすごいセリフが保育園からも市役所からも聞こえてくる!

考え方が人それぞれなのは当然。そして充分に議論されて素晴らしい。

情報番組は毎日被災地の現況を知らせ原発現場の進捗状況を伝えてくるけど、だけど、今は同じ数字を見る事も難しく、同じ目線で情報を得る事も、そして思いを分かち合う事が出来なくなっている。

実は私も「うるさくない派」だったのだが、庭のビワを今年は近所に配ることが躊躇われ、近隣の放射線量などを調べているうちに、ちょっと暢気でいられなくなったと言う。しかしちょっと重心を「うるさい派」に置いてみたら、いや~生き難い。だいたいやりづらい方に真があるんだよ。こういう事って。←?!

で、長くなったので続きは明日。