小事争論 こじ

アジア服・南国よろず屋ままかのボス。まだときどきちゃぶ台をひっくり返したりするけどだいぶ穏かになりました。

筑紫さんの死について

愛称「こじ」でお馴染みの我がブログ。正式なタイトルは 小事争論である。 もちろん、それは筑紫哲也の他事争論より拝借したものだ。 先日、筑紫さんが逝った。ショックだった。 癌で死んだのはニュースですぐに判った。が、でも何で? なんで死んだのか?と考えていた。 筑紫哲也が死んだ、と言うことはどういうことかと。 柔らかく左寄りに傾いていても行き過ぎない意識的な ふんばりをよく目にした。バランス感覚の優れた人だったと 思う。社会運動家に吊るし上げられ圧力団体に呼び出され テレビや活字から離れた時間もまた語り続けていたと聞く。 自分の思いや考えを多くの人に深く理解して貰う為に 語り続けると言うのはひどく興奮し、また疲れることだ。 コラム名をどうひねって拝借したかと言うと、彼と同じく 私もまた社会を論じる事に重きを置いて日々書いて行きたい、 と高く志し・・・しかし、私には語り合う相手もなく、たか だか四畳半で怒りテレビにみかんをぶつけてるがせいぜいの その世間にまったく影響を与えられないあまりに小さい筆力 を揶揄して多事でなく「小事」とした。そのまんまです。 普通の私が考え普通に語る。この「普通の人」だっていや 「普通の人」だからこそ考えるって事がとても大事なことだ と思ったのだ。最初の一筆は2000年2月15日。ざっと8年書き 続けている。8年書いた。書いたけど・・・ 最近、子供が出来て以前にも増してニュースが沁みる。 しかし子供が出来て「感じて」ばかりで疲れてしまっている。 それで感じた何かが「幸福」とやらでいつの間にか消化され てしまうなら何も無理に書く必要などない。でも私の中で感 受された違和感や怒りや、またちょっと嬉しかったことも、 何か言葉に距離を感じてしまってうまく書けず、ついそのま ま言語化しなかった自分への残念な気持は、澱の様に溜まっ てしまっている。今はダメかもしれないけれど、ぼちぼちと 始めないと。 と、筑紫さんに思った。 私がジャーナリストや評論家や文化人ではないごく普通の そこいらのおばちゃんで、そのおばちゃんが考え語ること 自体が大事なのだと、信じたい。この世に生きる大人とし て義務じゃないけど出来ればみんなやって下さいと思う程 大事なことなんだ。今はこうして便利なツールもありホン ト四畳半の文筆家には勿体無いくらいの時代なんだよ。 と、誰も頼んじゃいないのに勝手に自分に喝した。 筑紫さんが死んで、とてもさびしい。 素敵な大人がまた消えてしまいました。